エッセイ

ビバノンノンか、ビバドンドンか——母と妹と温泉に行った日の話

「ババンババンバンバン
 ババンババンバンバン」

揃いの鉢巻きに派手な法被姿の五人組が、ステージのスタンドマイクに体を傾ける。

「いっい湯っだーな」
すかさずカトちゃんが、抜けるようなハイトーンで合いの手を入れる。
「ビバ…………


あの合いの手は
ビバノンノンだったか?
ビバドンドンだったか

それはあまたの人々の意見の食い違いを生むところとなる



日帰り温泉に行こうという話になった。

七十を越えた母と五十代の娘二人。
近場の温泉に出かけ、普段よりちょっとだけいいものを食べて帰る。
これが毎月の恒例行事になっていた。

ところが、その日は
「たまにはどっか違うところに行きたいねぇ」
母の一言から始まった。

「え〜 でもあんま遠いとめんどくさいよねぇ」
食うことと寝ることと猫を撫でること以外の、あらかたは面倒くさいであろう妹が言う。

『日帰り 温泉 ランチ付き』とでも打って、スマホ画面をスクロールし始めた妹の横で、わたしはふと思い出していた。


かれこれ二十年ほど前の記憶だ。

娘を連れ、山間の小さな温泉に浸かったことがある。
五人も入れば窮屈になるような、本当に小さな温泉だった。
そこに行くことになった経緯はまったく覚えていない。
残っているのは、ひどく断片的でバラバラのパーツ。


娘を抱いたまま、タイル張りの浴槽に手を入れた。
途端、湯の熱さにたじろぐ。

「そーんな小さい子には熱いわ え? 熱いでしょ?」
いきなり知らない中年女性に声をかけられた。

子ども連れで温泉に来たことを咎められたようで、わたしは何も答えられなかった。
固まっていると、彼女は思い切り蛇口をひねり、湯気の上がる浴槽に水をざばざば入れ始めた。

「あーだいぶいいわ ほら、こんくらいだったら入れるわ」
娘のために湯加減を調整し、気さくに笑いかけてくれた。


あとは蟹。

畳敷きの湯上がり休憩室は小さな裏庭に繋がっていて、作られたばかりのまだ生々しい緑の鹿威しが見えたのを覚えている。水はなく、鹿威しも小さな水車もただのオブジェらしかった。

そのあたりの砂利の上に、無数の小さな蟹がいた。

臆病者らしく、人影が近づくとさっと藪の中に逃げ込む。

だが、しばらく見ているとまたどこからともなく出てくる。

小さな丸い鋏を腹に寄せ、じっとわたしを見ていた。

見ていたように感じた、だ。

わたしと娘は飽きもせず、ツヤツヤした小さな蟹と見つめ合った。


行きたくなった。

もう一度、あの温泉に行きたい。

単純な道だったことも幸いし、おおよその場所は覚えていた。

母と妹に提案すると、
「知らない 聞いたことない あんなとこに温泉なんかあるの?」
と母。

「え〜遠くない? けっこう遠いよ」
と妹。

一時間ちょいだ。
それと、たまには違うところに行きたいと言っていたのは誰だ?


「蟹がいたんだ」
わたしは言った。
「休憩室んとこに庭があってさ、小っさい蟹がいっ……ぱいいたんだ」

母と妹は沈黙した。

のち、
「海が近いもんね……」
母がぼんやりと言い、
「このくらいの蟹でしょ? あれ海の近いとこにはいるのよ」

人は“カニ”と聞いただけで、それが食えようが食えまいが、条件反射的に否応なく惹きつけられてしまうのだ。


すでに行くこと確定済みかと思いきや、
「でもさ、今日休みとかじゃない?」
しつこく妹が言う。

だがしかし、それはごもっともだ。
わざわざ出かけていって、定休日なんて悲劇は避けたい。


「聞いてみる」
わたしは検索し、らしき温泉を見つけた。

名前をはっきり思い出せなかったが、該当する地域にはその温泉名しか出てこない。

一件しかないのだから、ここで間違いない。

コール音を待つ間、出ないかもと思った。

まだ朝早い時間帯だ。たぶん営業時間外。

が、出た。

「ハイ、おはようございます K温泉です」

感じのいい年配女性の声。

今日営業しているかどうかを確認し、これからそちらに向かうと話した。

「ありがとうございます ただ、お風呂にお湯が溜まるのに少々時間がかかりまして、十一時ごろにお越しいただけますか」

わたしは快諾し、電話を切った。


二十年も経っていたが、この健忘症のわたしとしたことが道を覚えていた。

ものすごく、迷う余地もないほど簡単だったのだ。

国道を進むと目立つ目印があり、それを右折してあとはひたすら真っすぐ。

楽勝じゃないか。


記憶通りだった。

ハンドルを切って国道を外れるとすぐに踏切があり、その先を数百メーターも走っただろうか?

それほど行かないところに温泉はあるはずだった。

が……

ない。

いや、

あるにはあったのだが……


その廃屋に気づき、減速した。

記憶だと確かにこのあたりなのだが、そこに人の匂いはない。


「あれ……ここら辺だったんだよね」
気まずい空気を感じながら、廃屋の前に車を停める。

門柱に錆びきったチェーンが重く垂れ下がり、一斗缶や壊れた自転車が捨てられている。
周囲の土は硬く乾き、黄色くなったススキだけが繁茂している。
その中に沈んだように立つ建物は、裂けてほつれたカーテンが割れたガラス越しに見え、長年手入れされていないことは明瞭だった。


「もうちょっと先かも」
わたしは車を出した。


数十分走り、迫り出した樹の枝が山陰を濃くし始めた。

「ねえ、間違えたんじゃないの?」
始まった……
母は機嫌が悪くなると疑問形で詰めてくる。
「入口のとこから間違えてたんじゃないの? この道じゃないんじゃないの?」

うんざりしているところに、

「ヤバ、これ舗装なくなんないよね?」
半笑いで妹が言った。
わかっている、すでにビビっているのだ。


イライライライライライラしていたら、はっと気づいた。

わたしは車を停めて、にやけながら言った。
「ちょっと温泉に電話かけて道聞くわ」

そうなのだ。
早くそうすればよかったのだ。


今朝かけたばかりの履歴を開き、さっそく通話ボタンをタップする。
あの温和で、おそらく親切でそつなく仕事をこなしてくれるであろう年配女性の声を予想しながら。

本当に申し訳なさそうに眉と目尻を下げ、
(すみません)の「す」の字に口を開く準備を整えている。

わたしの耳に届いたのは

ブツッ……オキャク様ノオカケニナッタ電話番号ハ 現在ツカワレテオリマセン モウイチドオタシカメノウエ……


わたしは自他ともに認める現実主義者だ。

他人からこういった話をされたとき、内心ではヘッ……と鼻で笑っているようなやつだ。

だが、これは本当の話だ。


はぁ〜あ ビバノンノン!

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